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Author:nonki
生まれも育ちもわがまち”ふかや”
早いもので人生も半ばを過ぎ、今まで忙しく見過ごしてきた身の周りをもう一度見つめなおし、ゆっくりまったりどっぷりとこの街で生きて行こうと思っております。

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そのときれきしはうごいた、、、なんてね。
とうとうその時がきた!

厳しい年貢のとりたて。

幕府から受ける冷遇。

そこに後醍醐天皇から出陣の要請。

新田義貞さんもきっと迷ったでしょう。

だけど、ここは名門清和源氏の由緒正しい血を持つ新田家の長として、身を立てたいと思うのも分かるよね。

そこでとうとう決断するのよ。

「挙兵」

場所は生品神社境内。

IMG_7544.jpg

しかし、この時の兵はたったの150人ほど。

IMG_7546.jpg

挙兵というにはあまりに淋しくないかい?

IMG_7545.jpg

ところが、きっと不満は後醍醐天皇や楠木正成だけじゃなかったんでしょう。

越後の新田一族も加わりあっという間に数千の軍勢となったんだと。

これだけの大将となれば義貞さんも鼻高々だったでしょうね。

さて、この兵士。

IMG_7558.jpg

兵士と言っても近代の兵みたいに職業として訓練されている兵じゃない。

ただの農民なんだよ。

農民だって死にたくないから戦になんか行きたくないよね・・・と、それが違うのよ。

農民だからお米は食べ放題、、、なんてことは絶対にない時代。

ともかく食べることに必死だったのよ。

そんな時に食べること、そして手柄を立てれば褒美をもらえる戦は願ってもない仕事の場となるんですよ。

IMG_7561.jpg

嫌な時代だね。

IMG_7562.jpg

でも、そうして手柄を立てて少しづつ暮らしを楽にしていき、とうとう天下人にまで出世した豊臣秀吉だっている訳だから、農民にとって戦とは決して嫌な出来事じゃなかったんだね。

さあ、今度はその数千の兵に食べ物を与えなきゃ戦に勝てない武将たち。

よほどの財力がなきゃ誰もついていかない。

でも、自分の領地だけじゃ限りがあるし、戦も大変なんだよ。

ともかく戦に勝って敵の財を略奪していけかなければ到底養いきれないよね。

武将の戦いには自分の暮らしを守る戦いでもあったんだ。

そうして新田義貞は幕府を倒すために鎌倉に向かったんだよ。

IMG_7542.jpg

それを最後に(か、どうかは知らないけど)この新田の地を離れて戦に明け暮れていくんだ。

この新田義貞像は稲村ケ崎に黄金の剣を投げ入れると潮が引き、北条軍が沖に流され突破できたという逸話を像にしたんだってよ。

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なんとも神がかり的なお話ですわな。




 

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群馬県 | 04:37:03 | コメント(0)
ふまんはあんていのくらしのはたんへつづく。
生きるのも大変な時代。

荘園の惣領となった新田義貞さん。

惣領といったって、そりゃ大変な時代。

しっかりお国から年貢を採りたてられるんだ。

そりゃそうだよね、お金がなけりゃ政治もできないんだから。

お米の出来が悪けりゃ即飢饉。

いくら働いたって食べることにもこまりゃ農民たちの志気も上がらい。

上がらなきゃ米ができない。

それなのに年貢の取り立ては厳しい。

惣領の不満は増すばかり。

いつもの時代も政治の破たんはそんなところからくるんです。

しかも新田義貞の時代はもっと酷かった。

天皇を陰で操る政治を繰り広げていた北条氏に対して不満を持っていた後醍醐天皇。

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大阪の楠木正成に倒幕の話を持ち掛けるんだね。

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新田義貞には幕府から”手伝いにこいや!”の命令が下るんだけど、仮病を使って拒否。

しかし、幕府は許さず、無理な年貢の採りたてを行った。

そりゃ、たまったもんじゃないよね。

Shimo-akasaka-jyo02.jpg

そうじゃなくたって大変な時代なんだからさ。

こうして新田義貞も窮地に追い込まれていくのよ。

さて、義貞さんはどんな道を選んだか・・・。

ここは、新田義貞が若き頃住まいにしていたとされる反町館跡。

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今は薬師如来さまを祀られているお寺さんになってるよ。

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大きな藤棚。

きっと春にはすごい景色を見せてくれるんだろうな。

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この薬師如来のお寺の四方を水道で囲まれているけど、これはきっと近年に整備されたものでしょうね。

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ほら、畠山重忠の菅谷館跡はちょっとした小高い丘の上みたいな、地形的に守られるようなそんな館跡だったけど、新田氏の館跡はそういう地形的なものがない。

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平たんな場所にぽつんと築かれている。

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平安末期の混乱した時代から少しだけ安定し戦の少なくなった鎌倉時代の屋敷だから、ということなのかな。

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だけど、ここから再び戦乱の世の中に突入していく羽目となるのだけれどね。

せめての救いはこの地方で戦いが行われなかった、、、っていことぐらいかな。

さて、新田義貞さんの行く末は・・・また明日。



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群馬県 | 04:03:44 | コメント(0)
げんじのながれをくむたんぼです。
広大な土地ですわ

「荘園」

このお話となると大化の改新にまで遡らにゃならん。

それまですべての土地は国の物だったのね。

だけど、そうすると農民の志気が上がらんのよ。

そこで藤原氏の政策で墾田永年私財法なるものが施行されたのよ。

なに、それ?

これはね、開墾をしたものがその土地を所有してもいいって言う法律。

それを新田義重は新田の地を開墾して新田荘を築いたのよ。

この新田荘は広かったのよ。

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深谷市の小山川沿いの高島や横瀬辺りまで広げていったなんて史料もあるんだそうな。

一方、弟の足利義康は足利荘へ。

そう、あの足利も荘園だったのよ。

たぶん広さでは新田荘の方が広いんじゃないかと思うけど、ここで重要なのが水よ。

新田にはそりゃ大本の利根川が、そして支流の石田川という川がその役目を成してる。

もちろん、足利には渡良瀬川があるから水には困らなかったのでしょう。

豊富な水が無けりゃ開墾しても米がつくれないもんね。

新田荘にはそんな古くからの水源が残されているらしいよ。

そんな新田荘も代々開拓を広げ義貞の時代には広大な土地を手に入れていたんだろうな。

それじゃ、その荘園の中心となる新田氏の館は、、、というと、これが何ヶ所かあるのでワタクシも未だによく分からないんだけど、そのうちのひとつ、世良田の総持寺に行ってきたよ。

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いやいや、デカいお寺さんですわ。

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ここに舘があった、らしい。

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茅葺の鐘つき堂は風格充分。

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館跡に作ったお寺さんの説明書き看板もあったりして。

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いやいや、歴史を感じますな。

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きっと当時はこんな感じだったのかもね。

と、言う訳で、この一帯の農地を紐解けば、新田氏が開墾をした農地ってことになる。

農地にだって”由緒ある田んぼ”なんてものが存在するんだね。










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群馬県 | 04:37:45 | コメント(0)
ならぬこいものがたりがひげきをよぶ。
不運なり新田氏。

実は新田氏、とっても悲しい歴史を歩いてきたんだ。

それは新田義貞の時代になると、より一層際立つんだよ。

ではまず、以前お話した木曽義仲の清和源氏の婦系図を見てね。

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あの義仲の父義賢を討った悪源太義平こと源義平のお墓が新田世良田にあるんだよ。

それだけじゃ驚かないよね(結構びっくりしたけど)

でも、このお話を聞いたらマジで腰を抜かすよ。

源義平は平治の乱で平家に負け京の六条河原で斬首されちゃう。

この時20歳。

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(画像はお借りしました)

その義平にはお嫁さんがいてそのお嫁さんの名前が祥寿姫。

このひとが京から義平さんの首を持ち帰ってこの世良田清泉寺に供らったんだって。

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それがこのお墓。

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随分地味だけど・・・。

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今はご住職がいないのかしら。

随分荒れちゃってる。

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さて、この祥寿姫さんはなんと、新田氏の祖、義重の娘さん。

ここまではよかったよ新田さん。

でも、義平の弟、あの鎌倉幕府を開いた頼朝が兄の義平さんが亡くなった後に祥寿姫に惚れちゃった。

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(画像はお借りしました)

なに~、こりゃ大変じゃ! 頼朝さん、それ、ダメじゃん。

頼朝には北条政子という恐ろしい奥様が・・・。

やばいと思った義重お父さんは娘の祥寿姫をよそにお嫁にやってしまったんだと。

それに怒った頼朝さん。

それから新田家の冬の時代が始まったんだよ。

義重さんんの弟義康は足利荘で順調に出世していった。

片や新田荘での新田さんは・・・頼朝さんに嫌われちゃって・・・。

後に新田さんと足利さんの差は歴然、だよね。

それはこの新田世良田の地から始まったんだよ。

何ともすごい時代を見てきたんだね、この新田という町は。

しかしまあ、この狭い地域で色々な事件が起きてるよなぁ。

源氏といえば鎌倉辺りを想像するけど、ここまでこの地域が関わっていたとはねぇ。

乗り物といえば、馬ぐらいしかない時代に鎌倉だ、関東上野国だとむかしのひとはよく歩いたよね。

そうそう、大事なことを忘れてた。

新田や足利に欠かせない「荘園」というものの説明をしてなかったね。

ここ、重要よ。

それじゃ、そのお話はまた明日ね。





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群馬県 | 17:30:22 | コメント(0)
れきしはそうだいなのです。
時代の悪戯なのか?!

先ず系譜図を見てちょ。

そう、家系をみるとだいたいのことが分かっちゃう。

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「清和源氏家系図」ってあるよね。

そもそも、清和源氏って何ぞやってところからだよね。

清和さんっていう天皇なんだよ。

その天皇が氏族(武士)となって、源氏を名乗ったのよ。

だから清和源氏なの。

源氏には12の流派があるらしいけど、一番栄えたのが、この清和源氏さん。

ちょっと古いお話だけど、あの鴻巣の「渡辺綱」さんのお話をしたときには嵯峨源氏の名が出てきたけど、綱さんの親方「源頼光」が嵯峨源氏さんなのよ。

おっと、主題からそれちゃったね。

その清和源氏の源義重が改名して新田氏を名乗ったの。

はい、ここからが新田氏の始まりだよ。

同じくして、源義重の弟が源義康。

改名して足利氏を名乗ったの。

はい、新田氏と同じく、ここから足利氏の始まりだ。

そう、ゆくゆくはライバルとなる新田氏と足利氏は兄弟だったという、何ともすごいルーツよ。

ここが一番繁栄したと言われる由縁なんでしょうね。

ここにめんどくさい徳川が関わってくるからもっと凄いことになっちゃうんだけどね。

さあ、そんな新田氏の祖である義重さんは現在の太田市新田の地を開発していったのよ。

この辺り、いやいや、実に広い平地。

きっとお米をたくさん作らせたんでしょう。

そうして領地を広げた、その場所を「新田荘」と呼ぶんだ。

その居住地、お住まいがこの新田歴史公園内にあるんだけど、よく分かんない。

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発掘したらしいけど、今はその形跡はちょっとしたお堀みたいなものがあるだけ。

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新田と言っても利根川を挟んでちょっと北にいったところだよ。

すぐそこはもう深谷なんだからね。

まぁ、ちょっと間違ってたら深谷じゃなくって”新田氏”が治めた「新田市」と深谷がなっていたっておかしくなかったじゃん。

その当時、深谷市は誰が治めてたの?

分からんが(上杉憲顕)らしい。

やっぱり、新田氏や古河公方(足利氏)に責められていたので上杉憲英(のりふさ)を深谷に派遣したって。

そこが深谷上杉の始まりなんだってよ。

(それ以前は人見氏、畠山氏、榛沢氏、岡部氏などなど。太平記に記されていたらしいよ)

な~るほど、それが深谷城に繋がるのねん。

深谷も大変だったのね。

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はい、新田氏の始まり、分かったかな。










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群馬県 | 04:34:12 | コメント(0)
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