2014-12-20 Sat
女性には不遇の時代、明治・大正を強く生きた人々。
所用があり一路妻沼の地に。
あまり時間はないけど用事を済ませたらちょっと寄り道。
空はどこまでも青く、少しだけ寒さもゆるみ絶好のお散歩日和。
先ずは妻沼の偉人、いや今や日本の偉人となった荻野吟子さんの資料館へ。

言わずと知れた女医第一号。
日本の女性による医療の礎を築いた人ですね。
資料館を訪れたのはこれで二度目だったかな。


今回もそうだけど、この資料館に入ると心は完全にその時代にタイムスリップ。
確かに苦労をした吟子さんなんだけど、それよりも華やかさばかりが目立ってしまうのは気のせい?
それは舞台で吟子さんを演じた有名女優さんの衣装がど~んと中央に展示されていたり、その時代の富裕層の社交場を想像させるような雰囲気満載であったり、小説の一文が紹介されていたりで。
だけど実際には医師となり東京に住んでいた数年だけは確かにそうだったのかもしれないけど、結婚し北海道に渡った時は場所が場所だけにきっとそんな華やかさはなかったと思うよ。
吟子さんの一番華やいでいた時間なんてそう長くはなかったんだよ、きっと。
でも、第一号の吟子さんよりももっとつらいことのあったと思われるのが深谷市出身女医第二号の生沢クノさん。

(画像はお借りしました)
医師を志し東京へ上京するまではその境遇を踏まえ吟子さんよりも恵まれていた。
何せ、性病を理由に離婚され、そして屈辱的な治療を他の女性に味わさせないためにと医師を志した吟子さんに比べ、医師であった父親を見習うべく医師の道を選び送り出されたクノさんなのだから。
だけどそんなクノさん、医師になってからはこの深谷や寄居町などに開院、閉院を繰り返したらしく、病院のお世話になることがよほどのことのない限り無いという当時の庶民事情では病院経営はとても苦しいものに違いなかった。
それでも地域医療に専念するクノさん、時には治療代も払えない人であっても治療をし続け、人々の間では「女赤ひげ先生」なんて呼ばれていたらしいからすごい。
吟子さんのような華やかな時代もなく、そして生涯独身でいたこともクノさんらしい生き方といえば確かにそうなんだろうけどね。
それにしても女性であるということだけで医師への道が閉ざされていた厳しい時代を生きた吟子さん、クノさん。
そんな二人の埼玉県人が、しかも妻沼、深谷の出身の女性が医師への道をこじ開けたんだからこれはすごいよね。
きっと想像を絶するようなご苦労があったことは容易に想像できるけど、それを貫き通しちゃう気の強さ、意志の硬さは同郷の人間として心から誇りに思えるよ。
ただ、今でいう予備校で同門のお二人だけど、ほとんど親交がなかったというのはちょっと残念だったけどね。
それともうひとつ残念なこと。
いつの時代でも一位と二位の差は大きい。
吟子さんは小説にもなり舞台でも演じられ資料館、銅像、そしてこんなパンフレットまで。

そこへいとクノさんは・・・・
資料館はおろか、市民にさえそれ程知られず、街中にあるお寺にひっそりと眠っておられる。

もちろんパンフレットなんてないよね。
渋沢大御所なんてとっても立派な資料館があるんだからもっとクノさんにも脚光を当ててあげようよ、ねっ、深谷市さん。
だって地域医療にすべてをささげたクノさんなんだよ。
もしかしたらクノさんが存在がなかったらこの世に生きていなかった人だって我が街にはたくさんいるはずなんだ。
「二位じゃダメなんですか」、そんなことを言った政治家もいるけど、二位はただの二位じゃなくってとっても立派な二位で、そんな順位なんかでその人を評価しちゃダメだよね。
まあ、いずれにしてもこのお二人には心から拍手を送りたいよ。
ありがとう、吟子さん,クノさん。
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