2017-01-31 Tue
もうひとつ思い出しちゃった!奈良中央公園から熊谷スポーツ文化公園へ移動していたでしょ。

そうしたら、思い出しちゃうんだな、これが。
「妻沼線」
本当の名前は「東武熊谷線」って言うらしい。
別名「のろま線」
その気動車をカメ号と言うらしいけどワタクシ達の時代にはのろま線とは言っていたけどカメ号とは言ってなかったように思うんだけど、いつからそう呼ばれていたんだろう。
まあ、いいや、そうそう、思い出すな、のろま線。
ワタクシ、高校は熊谷の学校へ通っていたんで、妻沼方面から通ってる子たちの多くはこののろま線で通学していたんだよ。
だから友達を自転車の後ろに乗せてよく上熊谷駅や大幡駅に送って行ったけな。
今ならすぐにお巡りさんに怒られちゃう、自転車の二人乗り。
その駅にやってくるのがクリーム色の一両編成のディーゼル機関車(朝夕は二両編成だったように記憶してるんだけど・・・定かではありません)
その車両が妻沼公民館にあるのをもうずっと前から知っていたんだけど、いつか見に行きたいと思っていたんだ。
念願かなって(?)やっと重い腰を上げ見に行ってきちゃいましたよ、あののろま線車両。

あああ、懐かしい、そうそうこいつだよ。
こいつに乗った友達をよく見送ったっけなぁ。

確か、1時間に一本ぐらいしか走ってなかったような記憶があるな。
だから乗り遅れたら大変。

ふふ、懐かしい思い出だよ。
そんなパネル写真がこの展示室にあるんだ。

おお、わが青春時代が蘇るね~。

えええ、そうなんだ、元々は蒸気機関車。

本来は戦時中、熊谷方面から太田市中島飛行機の戦闘機製造工場に工員を輸送するための目的で軍主導の営業だったらしいですわ。

だから、妻沼駅でストップしていたその先にも利根川を越え、大泉まで伸ばす計画(館林まで伸ばす計画もあったそうな)もあり、その当時、作りかけの橋脚がずっと刀水橋横に残されていたよね。

終戦を迎え、その計画は断念されちゃったけど、その鉄橋が完成し、太田、若しくは館林までその線路が伸びていたらこの線路は廃線とされていたのかどうなのか分からなかったなぁ。

意外と太田や館林方面へは公共の交通手段としての不便さがあるもんね。
まあ、いずれにせよ、存続していたとしてもこの思い出の車両は走っていない事でしょう。

その車両がこうして保存展示してあることは、ちょっぴりうれしいことですわな。
ああ、わが青春ののろま線よ、、、永遠なれ!
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