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むかしはおどったんですよ。
何を思う、戦国の武将たちよ。 その2

この「埼玉県嵐山史跡博物館」のある嵐山町。

その史跡、「菅谷館跡」にこの博物館があります。

IMG_6606.jpg

はあ? なんじゃ、菅谷館って???

はい、嵐山史跡博物館のHPからの抜粋です。

 菅谷館跡は、古くから畠山重忠が暮らしていた地と伝えられています。
 畠山重忠は、源平争乱から鎌倉幕府創立期にかけて、多くの武勇や逸話を残した武将として有名です。

畠山氏は北武蔵の名族・秩父平氏の系譜をひき、長寛2年(1164)に、父・畠山庄司重能と、母・相模の名族 ・三浦義明の娘の次男として、現在の深谷市畠山の地に生まれました。治承4年(1180)、源頼朝が石橋山に挙兵した時、父重能が平家に仕え在京していたため、弱冠17歳の重忠も平家方に属し、頼朝方の三浦氏を討ちました。しかし、その後まもなく頼朝に仕え、鎌倉入りの際には先陣を務め、宇治川の合戦や一の谷の合戦、あるいは奥州藤原氏の征討などで多くの手柄をたてたことは、『平家物語』などに詳しく記されているとおりです。また、地元では児玉党と丹党との争いを調停するなど、武蔵武士の中心人物として人々の信望を集め、頼朝からも厚く信頼されていました。頼朝死後も和田義盛らとともに御家人の実力者として活躍し、その名を高めましたが、幕府内部の勢力争いにまき込まれ、北条氏の陰謀により42歳の若さで武蔵国二俣川(現在の横浜市旭区)に非業の死をとげてしまいました。

おお、なんだ、「畠山重忠」さんのお家だったんだ。

IMG_6644.jpg

幟には”菅谷城”ってあるね。

そう言われてみれば、何となくそんな感じがする。

この近く・・・でもないか、でもそう遠くもない「鉢形城」とよく感じが似てる。

時代は違ってもお城の跡って、その役目が同じだっただけに、そりゃ似ても不思議じゃないわな。

しっかし、畠山重忠(1164~1205)さん、随分”名”を残しましたな。。

IMG_6663.jpg

深谷の誇りですわ。

あのお隣、「熊谷次郎直実(1142~1208)」さんと同じ時代を生きた武将。

年齢的にちょっと後輩だけど、平家に使えていて、その後「源頼朝」に臣従した経緯は同じ。

ワタクシ達に時代にはお馴染みだよね、「直実節」

1 秩父の峰の雪白く 名も荒川の風寒し
     ここ武蔵野の大里は 関東一の旗頭
     直実公のふるさとぞ       
        (詩吟 「青葉の笛」)
        一の谷の軍破れ 討たれし平家の公達あわれ
        暁寒き須磨の嵐に 聞こえしはこれが青葉の笛
   2 源平須磨の戦いに 花も恥らう薄化粧
     智勇兼備の将なれば 敦盛の首討ちかねて
     無常の嵐胸を打つ
   3 人生うたた五十年 夢まぼろしに似たるかな
     今は栄位も何かせん あまねく人を救わんと
     その名も熊谷蓮生房
   4 流れて早き年月に 武蔵野山河変わるとも
     坂東武者の精神(こころね)は われらが胸に今もなお
     生きてぞ通う直実節


ほら、歌詞にもあるように、この辺り(嵐山を大里と呼ぶかどうかは別として)は沢山の”有名武将”を輩出してるのよ。

えっ、知らない⁈

それじゃぁ、仕方ないなぁ、youtube貼っておくので動画でお楽しみ下さい。


(動画はお借りしました)

昔はね、運動会で踊ったんですよ、直実節。

おっと、本題の畠山重忠さんを唄った「重忠節」もあるんだけど、容量が足りなくなっちゃったからまた明日ね。
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埼玉県その他 | 12:13:36 | コメント(0)
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