2018-06-11 Mon
ご苦労があったからこそ!ところで、何故この熊谷・深谷地区に小麦栽培がこれほど広まったのかというと、そこには一人の偉人のご苦労があったからなのです。
いや、日本中の農家を救った偉人。
熊谷市別府地区出身の、”麦王” 権田愛三

以下熊谷市HPより抜粋
権田愛三は江戸時代の嘉永かえい3年、現在の熊谷市東別府に生まれました。当時の麦作りは、生産が安定していなかったため、人々は食料不足で困っていました。そのような状況を憂いた愛三は、良質な麦の増産を決意し、研究を重ねながら麦作りの改良に取り組みました。
根張りをよくするために早春に麦の芽を踏む「麦踏み」や、熊谷の雪の少ない気候を利用して米の収穫が終わった冬の間に麦の生産をする「二毛作」を行ったのです。
こうした技術改良の結果、明治29年には当時の収穫量を4倍~5倍にあげることに成功し、その成果を地域の農家に伝授しました。明治41年にはこれまで研究してきた麦作生産技術を当時の農商務省に上申しました。すると、全国から依頼が舞い込み、各地に講演や技術指導に赴くほか、年間300人以上の研修生を自宅に宿泊させて実地指導を行いました。
このような愛三の貢献に、国は緑綬褒章、大礼記念章を授与しました。そして、こうした実績を称え「麦王ばくおう(麦翁)」と呼ばれた愛三のふるさと熊谷には、その思いをくんだ良質な麦作りとうどんの食文化が今も伝えられています。

別府沼公園(農村公園)に碑があります。

そう、今では麦踏みも、お米の前に麦を栽培するのも当たり前のように行われているけど、この当時としてはそうした栽培技術は確立されていなかったんだね。
そのおかげで収穫量が4~5倍に増えただなんて、画期的な技術を開発した訳でしょ。
こりゃ、勲章をいただいたって当たり前だ。
また別府という土地柄も手伝っての事なのでしょうね。

広大な田んぼ。
何処までも続く平地。
”地平線が見えるんじゃない?”と言って比企丘陵に住む友人が驚いていた。
それは大袈裟だとしても、綺麗に日の出を見ることもできるのも本当のお話。
だから、今どきの大型機械を使用しての小麦、稲作の栽培には本当に適していると思う。
きっと、こんな農業を想像していたのでしょう、麦王権田愛三さんは。
あなたの技術は今も受け継がれていますよ。
そしてもっと良質の小麦が栽培され、美味しい小麦粉になってみんなが喜んでいますよ。
ありがとう、麦王権田愛三さん。
と、振り返れば、別府沼公園の恒例行事、「ほたる祭り」の幟旗が。

6月16日開催だそうです。

今年もあの淡い光の乱舞が見られますよ。
別府地区の皆さん、お疲れ様です。

そしてありがとう。
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