2017-02-15 Wed
とうとうその時がきた!厳しい年貢のとりたて。
幕府から受ける冷遇。
そこに後醍醐天皇から出陣の要請。
新田義貞さんもきっと迷ったでしょう。
だけど、ここは名門清和源氏の由緒正しい血を持つ新田家の長として、身を立てたいと思うのも分かるよね。
そこでとうとう決断するのよ。
「挙兵」
場所は生品神社境内。

しかし、この時の兵はたったの150人ほど。

挙兵というにはあまりに淋しくないかい?

ところが、きっと不満は後醍醐天皇や楠木正成だけじゃなかったんでしょう。
越後の新田一族も加わりあっという間に数千の軍勢となったんだと。
これだけの大将となれば義貞さんも鼻高々だったでしょうね。
さて、この兵士。

兵士と言っても近代の兵みたいに職業として訓練されている兵じゃない。
ただの農民なんだよ。
農民だって死にたくないから戦になんか行きたくないよね・・・と、それが違うのよ。
農民だからお米は食べ放題、、、なんてことは絶対にない時代。
ともかく食べることに必死だったのよ。
そんな時に食べること、そして手柄を立てれば褒美をもらえる戦は願ってもない仕事の場となるんですよ。

嫌な時代だね。

でも、そうして手柄を立てて少しづつ暮らしを楽にしていき、とうとう天下人にまで出世した豊臣秀吉だっている訳だから、農民にとって戦とは決して嫌な出来事じゃなかったんだね。
さあ、今度はその数千の兵に食べ物を与えなきゃ戦に勝てない武将たち。
よほどの財力がなきゃ誰もついていかない。
でも、自分の領地だけじゃ限りがあるし、戦も大変なんだよ。
ともかく戦に勝って敵の財を略奪していけかなければ到底養いきれないよね。
武将の戦いには自分の暮らしを守る戦いでもあったんだ。
そうして新田義貞は幕府を倒すために鎌倉に向かったんだよ。

それを最後に(か、どうかは知らないけど)この新田の地を離れて戦に明け暮れていくんだ。
この新田義貞像は稲村ケ崎に黄金の剣を投げ入れると潮が引き、北条軍が沖に流され突破できたという逸話を像にしたんだってよ。

なんとも神がかり的なお話ですわな。
スポンサーサイト


にほんブログ村