2017-02-18 Sat
春が来た!一気に気温が20度を超えちゃったら、そりゃもう大変。
暑くって汗だくだくになるは、からだはだるくって何もやる気がなくなるは・・・で。
暖かったよね、昨日は。
このくらいの温度になったらきっと風景もちょっと違って見えるのかな。
そう思ってちょっとお散歩ね。
この紅梅はいち早く咲くんだよね。
でも、今年はあまり綺麗に咲かないな。

今までが寒すぎた?
でも、この花を見るともうすぐ春が来るような気になる、いくら寒い冬の間でも。
あの黄色い花は・・・。

あれ、いつの間にか福寿草が満開だ。

福寿草って冬の花のイメージが強いけど、こうして冬の日だまりにぽっかり咲いていると心がほんわりするよね。

いや、今日は冬の陽だまりって感じじゃないけどね。

良い花だよ、福寿草。
おなじ黄色の花でもこっちはクロッカス。

福寿草の黄色よりも一段と鮮やかな黄色。
春には黄色が良く似合う。

このちっちゃな花、いいよね。
まだまだ寒い日もあるだろうけど、思わずポケットから手を出したくなっちゃうような花だよ。
でも、なんと言ってもこの時期の花と言ったら梅でしょう。
こちらは随分遅くなっちゃったけど、ロウバイが見ごろ。

遅いぞ、ロウバイ君。
みんな黄色の花なのにその黄色の温かみが違ってちょっと面白いね。
さて、冬の花と言ったら梅でしょう。

今年は梅の開花が早かったよね。

もう満開だもの。

こっちの紅梅なんて終わっちゃいそう。
こうして色々な花が咲いてくると外のお散歩も楽しいよ。

ほら、空気まで何となく春っぽいでしょう。
ああ、嫌なことも忘れられそうだよ。。。


にほんブログ村
2017-02-17 Fri
やさぐれた夜に。生きていれば毎日が楽しい日ばかりじゃない
そりゃ嫌な思いもすれば、辛い出来事も起きる。
当たり前じゃん。
でも、そんな時の心の置き場はどうする?
深夜のコンビニ。
客はワタクシひとり。
こうなったらつよい酒でも飲んで寝ちまおうと洋酒のコーナーや冷された焼酎の類を物色。
そこへひとりの労働者風の黒く厚手のジャンバーを羽織ったお客様来店。
そのお客様は迷わずお弁当を手に取り、無言でレジに。
ワタクシには見慣れた風景。
深夜と言えどもコンビニのお弁当で腹を満たし、そしてまた労働につく人物など珍しくもない。
自分だってそうだ。
やっとその日を終え、静かに寝静まった家で待っているのは夜遊びから帰ってきた猫だけ。
腹を空かせているのか、足にまとわりつく猫は餌にありつけばすぐにお気に入りの寝床へ。
帰宅後の”ひと仕事”を終えた自分も小腹がへっては寝つきが悪いと冷蔵庫を覗くがめぼしい物もなく、濃い目の焼酎のお湯割りを煽りやがて寝落ちる。
深夜のテレビなど見るに値しない番組ばかり。
それでも音量を絞りテレビ相手に愚痴のひとつもつぶやきたくなる。
そうして毎日を過ごしている。
さて、買い物を済ませ駐車場に戻れば先ほどの労働者風のお客様が車内でひとり食事中。
ワタクシ同様、深夜の仕事を終えたのか、それともこれから向かうのか、とにかく一人の食事はどこの場所に限らずむなしいものだ。
それでも休むことはできない。
何故なら止まる事イコール崩壊を意味するから。
明日を生きるための食事は内容を度返しした、ただのエネルギーの補給行動にすぎない。
そのお客様に向かって「お互い頑張ろう」と思わずつぶやいてしまった自分。
誰かがやらねばならない。
だけどその役目が自分であることを時に恨めしくも思う。
深夜のコンビニ。
皆が無言で息を抜く場所。
そんなコンビニの唯一の楽しみのひとつ、「森の戦士ボノロン」の最新版2月号が置かれていた。

今回のボノロンは雨の止まない村のお話。
青い傘は幸せを願う今は亡き母の手作りの傘。

やさぐれた心をほっと温めてくれる森の戦士ボノロン。

酔いの中で読むのはボノロンに失礼かと手に取った洋酒を元の棚に戻し、レジでホットコーヒーを注文してしまった。
今宵の闇は深く長くなりそうな気配だ。

でも、きっと明ける。
明けない夜はかつて一度もない。
何度も読み返すボノロンの微笑んだイラストがやけに身に染みる今宵のひと時となったのは言うまでもない、な。


にほんブログ村
2017-02-16 Thu
新田氏滅ぶ!新田義貞は鎌倉に上り幕府を打ち負かす活躍。
だけど、ここまでだった・・・。
後に足利尊氏と戦うも破れ、そして後醍醐天皇にも見捨てられちゃう。
源氏の恐ろしい血がここでも発揮されるんだね。
足利氏とは同族なのに・・・。
結局、足利氏が南北朝の時代を制し足利幕府を気づくんだけど、当の新田氏は義貞さんは1338年越後藤島で討ち死にしちゃうんだ。
子孫も途絶え、名門新田氏はこれで途絶えちゃう。
新田荘はといえば、足利の北朝側についていた新田氏の末裔岩松氏に渡ったのだけど、下剋上により横瀬氏(由良氏)の手に。
その横瀬氏によりいつか紹介した太田市金山の金龍寺に供養塔が建てられたんだね。
新田氏累代の墓は太田市宝泉地区円福寺にあるよ。

ここで途絶えちゃう新田氏。

丸や四角に削られた石組みがやけに寂しそうだったな。

一方の足利の街がとっても綺麗に整えられ、今も観光都市として整備されているのを見るとなんだかむなしく思えちゃう。

戦に勝つこと、天下をとることとは今の時代にまでしっかりその影響を及ぼすんだな。
もし、新田義貞がもっと戦に長け、政治の手腕を振ることができていたなら、この新田という地はもっと違う進化を遂げたに違いない。

と、すれば少なからずともこの深谷という地にも影響を及ぼしまるで違う街になっていた可能性もある。
が、やっぱり新田は新田で良いし、太田は太田そして深谷もそれでよかったのかもしれないね。
歴史とは紙一重。

そんなことをふと思った新田の旅でした。


にほんブログ村
2017-02-15 Wed
とうとうその時がきた!厳しい年貢のとりたて。
幕府から受ける冷遇。
そこに後醍醐天皇から出陣の要請。
新田義貞さんもきっと迷ったでしょう。
だけど、ここは名門清和源氏の由緒正しい血を持つ新田家の長として、身を立てたいと思うのも分かるよね。
そこでとうとう決断するのよ。
「挙兵」
場所は生品神社境内。

しかし、この時の兵はたったの150人ほど。

挙兵というにはあまりに淋しくないかい?

ところが、きっと不満は後醍醐天皇や楠木正成だけじゃなかったんでしょう。
越後の新田一族も加わりあっという間に数千の軍勢となったんだと。
これだけの大将となれば義貞さんも鼻高々だったでしょうね。
さて、この兵士。

兵士と言っても近代の兵みたいに職業として訓練されている兵じゃない。
ただの農民なんだよ。
農民だって死にたくないから戦になんか行きたくないよね・・・と、それが違うのよ。
農民だからお米は食べ放題、、、なんてことは絶対にない時代。
ともかく食べることに必死だったのよ。
そんな時に食べること、そして手柄を立てれば褒美をもらえる戦は願ってもない仕事の場となるんですよ。

嫌な時代だね。

でも、そうして手柄を立てて少しづつ暮らしを楽にしていき、とうとう天下人にまで出世した豊臣秀吉だっている訳だから、農民にとって戦とは決して嫌な出来事じゃなかったんだね。
さあ、今度はその数千の兵に食べ物を与えなきゃ戦に勝てない武将たち。
よほどの財力がなきゃ誰もついていかない。
でも、自分の領地だけじゃ限りがあるし、戦も大変なんだよ。
ともかく戦に勝って敵の財を略奪していけかなければ到底養いきれないよね。
武将の戦いには自分の暮らしを守る戦いでもあったんだ。
そうして新田義貞は幕府を倒すために鎌倉に向かったんだよ。

それを最後に(か、どうかは知らないけど)この新田の地を離れて戦に明け暮れていくんだ。
この新田義貞像は稲村ケ崎に黄金の剣を投げ入れると潮が引き、北条軍が沖に流され突破できたという逸話を像にしたんだってよ。

なんとも神がかり的なお話ですわな。


にほんブログ村
2017-02-14 Tue
生きるのも大変な時代。荘園の惣領となった新田義貞さん。
惣領といったって、そりゃ大変な時代。
しっかりお国から年貢を採りたてられるんだ。
そりゃそうだよね、お金がなけりゃ政治もできないんだから。
お米の出来が悪けりゃ即飢饉。
いくら働いたって食べることにもこまりゃ農民たちの志気も上がらい。
上がらなきゃ米ができない。
それなのに年貢の取り立ては厳しい。
惣領の不満は増すばかり。
いつもの時代も政治の破たんはそんなところからくるんです。
しかも新田義貞の時代はもっと酷かった。
天皇を陰で操る政治を繰り広げていた北条氏に対して不満を持っていた後醍醐天皇。

大阪の楠木正成に倒幕の話を持ち掛けるんだね。

新田義貞には幕府から”手伝いにこいや!”の命令が下るんだけど、仮病を使って拒否。
しかし、幕府は許さず、無理な年貢の採りたてを行った。
そりゃ、たまったもんじゃないよね。

そうじゃなくたって大変な時代なんだからさ。
こうして新田義貞も窮地に追い込まれていくのよ。
さて、義貞さんはどんな道を選んだか・・・。
ここは、新田義貞が若き頃住まいにしていたとされる反町館跡。

今は薬師如来さまを祀られているお寺さんになってるよ。

大きな藤棚。
きっと春にはすごい景色を見せてくれるんだろうな。

この薬師如来のお寺の四方を水道で囲まれているけど、これはきっと近年に整備されたものでしょうね。

ほら、畠山重忠の菅谷館跡はちょっとした小高い丘の上みたいな、地形的に守られるようなそんな館跡だったけど、新田氏の館跡はそういう地形的なものがない。

平たんな場所にぽつんと築かれている。

平安末期の混乱した時代から少しだけ安定し戦の少なくなった鎌倉時代の屋敷だから、ということなのかな。

だけど、ここから再び戦乱の世の中に突入していく羽目となるのだけれどね。
せめての救いはこの地方で戦いが行われなかった、、、っていことぐらいかな。
さて、新田義貞さんの行く末は・・・また明日。


にほんブログ村
2017-02-13 Mon
広大な土地ですわ「荘園」
このお話となると大化の改新にまで遡らにゃならん。
それまですべての土地は国の物だったのね。
だけど、そうすると農民の志気が上がらんのよ。
そこで藤原氏の政策で墾田永年私財法なるものが施行されたのよ。
なに、それ?
これはね、開墾をしたものがその土地を所有してもいいって言う法律。
それを新田義重は新田の地を開墾して新田荘を築いたのよ。
この新田荘は広かったのよ。

深谷市の小山川沿いの高島や横瀬辺りまで広げていったなんて史料もあるんだそうな。
一方、弟の足利義康は足利荘へ。
そう、あの足利も荘園だったのよ。
たぶん広さでは新田荘の方が広いんじゃないかと思うけど、ここで重要なのが水よ。
新田にはそりゃ大本の利根川が、そして支流の石田川という川がその役目を成してる。
もちろん、足利には渡良瀬川があるから水には困らなかったのでしょう。
豊富な水が無けりゃ開墾しても米がつくれないもんね。
新田荘にはそんな古くからの水源が残されているらしいよ。
そんな新田荘も代々開拓を広げ義貞の時代には広大な土地を手に入れていたんだろうな。
それじゃ、その荘園の中心となる新田氏の館は、、、というと、これが何ヶ所かあるのでワタクシも未だによく分からないんだけど、そのうちのひとつ、世良田の総持寺に行ってきたよ。

いやいや、デカいお寺さんですわ。

ここに舘があった、らしい。

茅葺の鐘つき堂は風格充分。

館跡に作ったお寺さんの説明書き看板もあったりして。

いやいや、歴史を感じますな。

きっと当時はこんな感じだったのかもね。
と、言う訳で、この一帯の農地を紐解けば、新田氏が開墾をした農地ってことになる。
農地にだって”由緒ある田んぼ”なんてものが存在するんだね。


にほんブログ村
2017-02-12 Sun
不運なり新田氏。実は新田氏、とっても悲しい歴史を歩いてきたんだ。
それは新田義貞の時代になると、より一層際立つんだよ。
ではまず、以前お話した木曽義仲の清和源氏の婦系図を見てね。

あの義仲の父義賢を討った悪源太義平こと源義平のお墓が新田世良田にあるんだよ。
それだけじゃ驚かないよね(結構びっくりしたけど)
でも、このお話を聞いたらマジで腰を抜かすよ。
源義平は平治の乱で平家に負け京の六条河原で斬首されちゃう。
この時20歳。

(画像はお借りしました)
その義平にはお嫁さんがいてそのお嫁さんの名前が祥寿姫。
このひとが京から義平さんの首を持ち帰ってこの世良田清泉寺に供らったんだって。

それがこのお墓。

随分地味だけど・・・。

今はご住職がいないのかしら。
随分荒れちゃってる。

さて、この祥寿姫さんはなんと、新田氏の祖、義重の娘さん。
ここまではよかったよ新田さん。
でも、義平の弟、あの鎌倉幕府を開いた頼朝が兄の義平さんが亡くなった後に祥寿姫に惚れちゃった。

(画像はお借りしました)
なに~、こりゃ大変じゃ! 頼朝さん、それ、ダメじゃん。
頼朝には北条政子という恐ろしい奥様が・・・。
やばいと思った義重お父さんは娘の祥寿姫をよそにお嫁にやってしまったんだと。
それに怒った頼朝さん。
それから新田家の冬の時代が始まったんだよ。
義重さんんの弟義康は足利荘で順調に出世していった。
片や新田荘での新田さんは・・・頼朝さんに嫌われちゃって・・・。
後に新田さんと足利さんの差は歴然、だよね。
それはこの新田世良田の地から始まったんだよ。
何ともすごい時代を見てきたんだね、この新田という町は。
しかしまあ、この狭い地域で色々な事件が起きてるよなぁ。
源氏といえば鎌倉辺りを想像するけど、ここまでこの地域が関わっていたとはねぇ。
乗り物といえば、馬ぐらいしかない時代に鎌倉だ、関東上野国だとむかしのひとはよく歩いたよね。
そうそう、大事なことを忘れてた。
新田や足利に欠かせない「荘園」というものの説明をしてなかったね。
ここ、重要よ。
それじゃ、そのお話はまた明日ね。


にほんブログ村
2017-02-11 Sat
もう一度復習しましょう。酷い時代だった、鎌倉時代。
それじゃ、ば~んっと飛んで新田家8代後まで飛ばすよ。
そう、そこが鎌倉幕府の終末期。
新田義貞の名前を世に知らしめる時代だよ。

(新田義貞とされる画像はお借りしました)
おっと、その前に鎌倉時代の酷い時代をかいつまんで説明しておきましょう。
あの源頼朝、義経兄弟や従兄弟の源義仲が平氏を打ち負かし、関東武士の活躍で鎌倉に幕府を築いた鎌倉幕府。
しかし頼朝、義経は従妹の義仲を討ち、そしてあろうことか頼朝は義経さえも殺害するという、血も涙もない骨肉の戦いが繰り広げられるのよ。

(源頼朝とされている画像はお借りしました)
そして、天下を獲った将軍頼朝さえもあっという間に病死(らしい)。
その子供たちも北条氏の謀略によって源家は3代で将軍の座を明け渡す羽目となる。
これ、身内による殺し合い憎しみ合いの末の祟りなんじゃね?
そこに躍り出たのが北条政子。

(北条雅子とされている画像はお借りしました)
頼朝の奥さんね。
この北条さんが陰で操る政治で各方面に不満が渦巻きながらも何とか鎌倉幕府を治めてきたけど、あろうことに今度は横槍を入れるお邪魔虫が外国からくるのよ。
「蒙古来襲!(元寇)」

(画像はお借りしました)
モンゴルからフビライ・ハーンが日本(九州)を攻めに来たの。
”神風”のおかげで何とか守り抜いたけどこれでお金をいっぱい使っちゃった幕府は次第に力を弱めていったのね。
そこで兵を挙げたのが、源氏の末裔、新田義貞、足利尊氏とくるのよ。

(画像はお借りしました)
この画像は昔、足利尊氏とされていたけど、現在はどうやら尊氏さんじゃないらしいと言われるようになったみたいね。
でも、ワタクシらの時代で尊氏さんといったらすぐにこの画像を思い出しちゃう。
それはそれとして・・・。

さあ、いよいよ登場だよ、新田の新田義貞さん。


にほんブログ村
2017-02-10 Fri
時代の悪戯なのか?!先ず系譜図を見てちょ。
そう、家系をみるとだいたいのことが分かっちゃう。

「清和源氏家系図」ってあるよね。
そもそも、清和源氏って何ぞやってところからだよね。
清和さんっていう天皇なんだよ。
その天皇が氏族(武士)となって、源氏を名乗ったのよ。
だから清和源氏なの。
源氏には12の流派があるらしいけど、一番栄えたのが、この清和源氏さん。
ちょっと古いお話だけど、あの鴻巣の「渡辺綱」さんのお話をしたときには嵯峨源氏の名が出てきたけど、綱さんの親方「源頼光」が嵯峨源氏さんなのよ。
おっと、主題からそれちゃったね。
その清和源氏の源義重が改名して新田氏を名乗ったの。
はい、ここからが新田氏の始まりだよ。
同じくして、源義重の弟が源義康。
改名して足利氏を名乗ったの。
はい、新田氏と同じく、ここから足利氏の始まりだ。
そう、ゆくゆくはライバルとなる新田氏と足利氏は兄弟だったという、何ともすごいルーツよ。
ここが一番繁栄したと言われる由縁なんでしょうね。
ここにめんどくさい徳川が関わってくるからもっと凄いことになっちゃうんだけどね。
さあ、そんな新田氏の祖である義重さんは現在の太田市新田の地を開発していったのよ。
この辺り、いやいや、実に広い平地。
きっとお米をたくさん作らせたんでしょう。
そうして領地を広げた、その場所を「新田荘」と呼ぶんだ。
その居住地、お住まいがこの新田歴史公園内にあるんだけど、よく分かんない。

発掘したらしいけど、今はその形跡はちょっとしたお堀みたいなものがあるだけ。

新田と言っても利根川を挟んでちょっと北にいったところだよ。
すぐそこはもう深谷なんだからね。
まぁ、ちょっと間違ってたら深谷じゃなくって”新田氏”が治めた「新田市」と深谷がなっていたっておかしくなかったじゃん。
その当時、深谷市は誰が治めてたの?
分からんが(上杉憲顕)らしい。
やっぱり、新田氏や古河公方(足利氏)に責められていたので上杉憲英(のりふさ)を深谷に派遣したって。
そこが深谷上杉の始まりなんだってよ。
(それ以前は人見氏、畠山氏、榛沢氏、岡部氏などなど。太平記に記されていたらしいよ)
な~るほど、それが深谷城に繋がるのねん。
深谷も大変だったのね。

はい、新田氏の始まり、分かったかな。


にほんブログ村
2017-02-09 Thu
歴史の旅はここから始まった。この辺りで一番近い歴史資料館。
そうだね、やっぱり世良田の「新田庄歴史資料館」だよね。

世良田の東照宮のお隣さん。

そう、そんな感じで別に深く考えたわけじゃなく、どちらかといえばふらりと訪れたって感じかな。
だって、もう何度も遊びに行ってる歴史公園だもん。
でも、ここの資料館に入ったのは正直初めて。

だって、ごめん、興味なかった・・・。
でも、格安で入館できることを知ったらそりゃ見なきゃ損でしょう。。。
はい、ここの受付でご購入ね。

おやおや、貧乏性がこんなところにも現れたかい。
そんなわけでして、平日の午後伺いました。

ハイ、お客様も数名おりましたよ。
この辺りで出土したものや当時を語るお寺の備品、新田家の系譜図などなど。
でも、一番目を引いたのがエントランスホールにある甲冑。

当然レプリカでしょうが、甲冑って美しいよね。
きっと当時もこれと同じようなものを身に付けた関東武士が馬にまたがり勇ましい姿を見せていたんでしょうね。
と、ここで時代背景を系譜図を見てて思ったのよ。
この新田氏よりも前の時代・・・それが畠山氏や木曽義仲の時代なんだと。
それじゃ、先ずはそこから調べて行こうかと・・・菅谷館に向かうことにしたのよ、実のところはね。
だからこの新田氏の歴史に辿るまで随分遠回りをしたし、ひと時代超えての歴史のことだし、ちょっと混乱しそうだけどそのところはど素人なんで間違っていても勘弁してね。

でも、すごく楽しみなんだよね、新田氏の歴史。
さあ、今度は室町時代に夢を馳せるよ~。


にほんブログ村