2015-11-10 Tue
紅葉を求めて。 ≪秩父路編 その2≫もう2度目の登場になるのかな、ミューズパーク。
そう、ミューズパークといえば「音楽寺」。

ここは欠かせないよね。
でも、今回はお寺さんというよりもお寺さんから少し離れた話題としましょう。

そう、音楽寺だからこの手の事を祈願する、っていうのは想像がつくでしょう。


でも、そんな境内の隅っこにこんなものがあるのよ。
「秩父困民党 無名戦士の墓」なる碑。

秩父困民党って簡単にいっちゃうと秩父事件を起こした政治団体(と、言っていいのかどうなのか…)
そっか、先ずは秩父事件から説明した方が良いのかな。

明治の初期(秩父事件は明治17年)、政府の政策によってデフレに陥った日本経済。
農民の生活は苦しく、秩父などに多かった養蚕農家はその収益を当てにして銀行や高利貸から借金をして生計を立ててた。
しかしそのデフレ、そしてヨーロッパでの生糸の大暴落によって生活が成り立たなくなった農民が決起し銀行や高利貸の証書を破棄してしまうが、政府からの弾圧によって数名が死刑判決を受けた、という事件。
もちろん、当時のことだから不当に処罰された者もいたのでしょう。
弾圧という名の、処罰という名の、不当な刑が執行されていたかもしれないし、争いの場で負傷者やもしかしたら死亡した者もいたかもしれない。
ワタクシはそのことに対して詳しくは知らないし、改めて調べようとも思わないけど、そうした事実が現実にあったということ。
この秩父の地で、しかも、今、奇しくもこの時期と同じ時に、木々が色づきこれから冬を迎えるというようなこの時期に、貧困に苦しみ、戦いに敗れ、そしてからだもこころも痛めたに人間がたくさんいたという事実。

この碑がなぜここに存在するのか、それさえも知る由もないけど秩父の街を一望できるこの地にもし眠っている戦士がいたなら今の時代をどう思っているだろう。
”デフレの時代”(脱却を目指しているそうだが)である今現在、繰り返される歴史を嘆いているのか。
それともまだまだ甘いと薄笑いを浮かべているのか。
いずれにしても秩父とはそういう歴史の上に成り立っているということを肝に銘じておく必要はあるようだね。
続く
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