2015-05-31 Sun
さすが、県の管理施設だねここ熊谷スポーツ文化公園には今、こんな花も咲いているんだぜ。
これはたぶんシャクナゲだと思うんだけど、ピンクのやつはもうとっくに咲いちゃったよね。

遅咲きの品種なのかな。
つつじの仲間だというシャクナゲだけど花だけ見るとユリみたいだね。
そのつつじの仲間、さつきもいっぱい咲く公園なんだけど今年はダメ。
きっとこの季節外れの高温が影響しているんだろう。
咲くには咲いているけど綺麗じゃない。
暑くて大変なのは人間だけじゃないんだね。
それにしても雨が降らないよなぁ。
それでも頑張って咲いてる草花たち。
マツバギクかな?

これはラベンダー、、、かも。

そしてニッコウキスゲだって咲いてる。

今、花壇にはペチュニアなんかが植え込まれていたりして、この公園を管理する造園屋さんは大忙しだよ。
だけどさすが県が管理する施設。
こんなに大きい公園なのに四季折々、花を欠かしたことが無い。
そんな公園だからこそ、深谷市民だって、行田市民だって、そしてもちろん地元熊谷市民だって、みんなみんな気持ちよく利用できるんだね。
ありがとう。
これからも関係者の皆さん、よろしくお願いしま~す。
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2015-05-30 Sat
夏、、、ですか~。重たいお話が続いたのでちょっとのあいだゆったりしましょうね。
いかにも初夏の花、睡蓮が咲き始めましたよ。


場所は熊谷スポーツ文化公園陸上競技場東側の池。

五月初め、もうじき咲くな・・・と思っていたんだけどちょっと目を離したすきにいっぱい咲いちゃった。
でも、この花は意外と咲いてる期間が長いのでまだまだこれからも楽しめるよ。
実はこの池、あまり人が近づかないのね。
だから謎の生物が存在してる、、、かも。
姿を見たことが無いんだけど、何か大きめの生物が池にポチャ~ンって飛び込むんだよ。
たぶん、普通のカエルよりも大きい何か。
カメ? ウシガエル? それとも、、、ネッシー???(そんな訳ない!)
う~ん、未だに分からないんだ。
もし、お近くにお住まいで、興味があって、朝早く起きられる方がいらしたら、是非行ってみて。
そしてその正体を暴いてよ。
もう何度も脅かされっぱなしのワタクシ。
どうしても知りたいんだけど絶対にその姿を見せてくれないんだよね~。
ところで「睡蓮」は睡眠の睡と蓮と書いてスイレンね。

昼間咲いて夜花を閉じちゃうから眠る蓮の花という意味なんだよ。
ほお、なるほどね~、のお話でした。


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2015-05-29 Fri
”だっそさま” 平九郎遺体となった平九郎の首は切り取られ越生今市村でさらし首となった。
その後、その首は法恩寺の僧侶により林に埋葬されたとされている。
一方、残された胴体は黒山の村人たちにより全胴院に手厚く葬られた。


小高い場所にある埋葬されたその墓地は故郷の深谷は見えぬとも何故かホッとさせてくれるかのような景色を見せていてくれていた。

激動の時間を過ごし、周りの景色に目をやる余裕さえなかっただろう平九郎は命の炎が消えたその場所でようやく落ちつくことができたに違いない。
村人たちは”脱走の勇者さま(だっそさま)”とし、首から上の病気の神様とその後も崇め続けたという。

こうして平九郎の激動の人生はこの地で幕を閉じたのだが、そのことを後に知った栄一は遺骨を掘り集め渋沢家の菩提寺である上野寛永寺に移したそうな。
山間の日暮れは早く、薄暗くなり始めたその時間。
もしも、もしも、この窮地を乗り切り逃げ延びられたとしたらその後の平九郎の人生は・・・、などと勝手に思い更けていると遠くでうぐいすの鳴く声が聞こえてきた。
それはそれは清々しく美しい鳴き声で、まるで汚れなき純粋な生き方しかできなかった平九郎の心を写すかのように。

(画像はお借りしました)


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2015-05-28 Thu
平九郎、最後の時傘杉峠から下ったか、それとも違う道を選んだかは不明だがともかく黒山を目指す平九郎。

しかしそのころ、官軍安芸広島藩神機隊による振武軍敗残兵掃討の捜索が行われていた。
運悪く隊に出くわしてしまった平九郎はその時、尻端折り、風呂敷包みひとつ、草鞋もはかずと茶屋の主人加藤たきの忠告通り農民に扮していたのだが小頭の詰問に不覚にも顔色を変えてしまった。

取り押さえられそうになるや否や小頭の片腕を隠し持っていた小刀で切り落としたが、背後から右肩を切りつけられてしまった。
鬼気迫る平九郎の迫力に押されながらも銃を向ける兵。
一発の銃弾が平九郎の腿を撃ち抜く。
これまでかと観念した平九郎は路傍の大石の上に座り心静かに自らの果てたと伝えられている。


この時、慶応4年5月23日午後4時ごろ、22歳の若さであった。
その場所にはグミの古木があり、平九郎の流した血を吸って今でも真っ赤な身をつけるといわれているらしい。


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2015-05-27 Wed
平九郎の足取りをもとめて。官軍に敗れた神武軍。
平九郎は故郷の下手計を目指す。
飯能天覧山・能仁寺(振武軍陣営)からどういう道のりを経て顔振峠に至ったのかは分からないが、地形的に言って吾野あたりから山に入ったのではないかと思う。
焦れば焦るほど最短距離で故郷に帰りたくなるし、山を行ったほうが逃げるのにも都合がいい。

そうして顔振峠にたどり着いたわけだが、そこの茶屋で草鞋をもとめその代価として刀を預けたという。


いくら若い平九郎とは言えかなり険しい山道。
ここまで逃げるのも必死だったと思う。
草鞋も相当痛んだか。
この山を下り小川町まで行けば深谷の地もそう遠くはない。
敗走の屈辱、そして命の危機に常にさらされて心身ともに相当疲れていたと思う。
そこに判断の間違いがあった。
直進し秩父に逃げ延びた従兄弟の渋沢喜作はその後も生き続け、最後は悠悠自適な生活で終えたと。
一方の平九郎は・・・・。
さて、この顔振峠から1kmほど先に傘杉峠、そこから1.5kmほど下ると黒山に至る。


そして運命の時が・・・・。


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2015-05-26 Tue
慶応4年(1868)5月23日渋沢平九郎 志半ばにしてこの世を去る。
顔振峠、平九郎茶屋。
そう、いつだったか一度行った場所。
生憎、その日は体調悪くそのまま帰路についたのだが・・・。
渋沢平九郎
慶応3年 パリ万博の随行の渋沢栄一の見立て養子となった尾高惇忠の末弟。
兄惇忠や栄一従兄弟の渋沢喜作らと共に彰義隊に参加。
後に脱退し振武軍を結成。
飯能戦争の末敗れ敗走するも仲間とはぐれ顔振峠の茶屋にたどり着く。
女主人加藤たきの忠告を聞き入れ身分を隠し黒山に下ったが、安芸広島藩の振武軍敗残兵掃討の兵士に見破られ応戦するも右肩を切られ腿を撃ち抜かれ観念し、最後は心静かに自刀。午後4時ごろのことであった。享年22歳。
この越生黒山にその自刀の碑が渋沢一族の手により建てられている。
黒山三滝からわずかに離れた場所だ。
奇しくも命日の翌日、ちょうど亡くなった同時刻にこの場を訪れたのだが、辺りは山に囲まれ薄暗く、濃い緑と静粛に包まれたこの場所で平九郎の心中察するにはあまりに淋しすぎる景観。
故郷を思い、親兄弟を慕い、若き命がここに消えたと思うといくらその時代の宿命とは言えやるせなさでいっぱいとなった。
もし、茶屋の女主人のもうひとつの忠告を聞き入れ秩父への逃走を実行していたならその命も未来も全く違ったものになったに違いない。
今やハイカーやツーリストで賑わう平九郎茶屋ではあるが、ある若者の運命を決定した分岐点でもあった。
何とも悲しい運命。
思わず掌を合わせずにはいられなかった。


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2015-05-25 Mon
花袋先生の旅 越生黒山三滝編こうしてなんだかんだと言いながらもこの旅の最終目的地、越生町黒山に到着。
花袋先生は飯能から出発したらしいんだけど、さすがにそこまでは追えないということで、とりあえず今回はここまでとしてもらおうかな、と。
追々、花袋先生の旅の終着地長瀞にも行ってみようかなとは思ってはいるけどね。
さて、この越生町には黒山という場所にそれはそれは有名な滝があって、それを「黒山三滝」という。

そこには鉱泉があってその旅籠にご宿泊。
旅の疲れを癒したんだろうね。

この黒山三滝、本当に緑が濃くって気持ちがいい。

マイナスイオン効果、抜群!

ここならご同行のご婦人、お子様もご納得でしょう。

そしてもうひとつ、ここは梅園が有名。
あったんだね~、梅園、この当時から。
花袋先生、褒めたよ、この梅園を。
ワタクシは今、梅園に行っても葉っぱの茂る梅の木しかないから端折っちゃったけど、花袋先生が旅をしたのが春先だというんで、もしかしたら花が・・・、無いか(笑)
むしろ、梅の実ね。
しまった~、気がつかなかったよ~。
まあ、いずれにしてもこの当時にこのあたりはかなりいい観光地に違いなかったと思うよ。
今じゃかなり寂れちゃったけど、、、それがまた魅力になってたりして。。。

さあ、今回の旅はここまで・・・とは、、、ならなかったんですよ、はい。
明日からはちょっとだけおまけ編ね。


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2015-05-24 Sun
花袋先生の旅 旅の途中の食事事情。そう、花袋先生だけでなく、こうして大正初期に旅にでた人々も多かった、かも。
先生のように乗合馬車に揺られる人もいれば、ご自分の足で歩いた人もいたでしょう。

今のように電車や車でびゅ~んと行っちゃう訳じゃないから、そりゃ時間もかかる。
時間がかかればお腹もへる。
そうくればこの時代の旅人ってお昼ご飯は何を食べたんでしょう。
お江戸の時代劇に出てくるように茶店があって、お団子や饅頭なんかを食べたのかな。
そう言えば、以前深谷市だけでなく全国各地に”伊勢屋”さんというお店があって、お伊勢参りが流行したその時代からお団子やおいなりさんを置いたお茶屋さんが多くあったって話があったよね。
だけど、そういうお店の多くは今でいうメインロードや繁華街に多く、花袋さんが旅をした山間の街道にはそのようなお店やそのなごりみたいなものがざっと見たところ見当たらないんだよね。
大きな街に出れば老舗の〇〇屋さんみたいなお店は確かにあるんだけど、肝心なその途中に今のコンビニみたいなお店やレストランみたいなものはは多分なかったんだろうな。
そうなればやっぱりお弁当なんだろうね。
いくら大正時代とはいえ、立派なお弁当というよりもおにぎり、お餅、お饅頭、そのくらいなんじゃないかな。
そんな気分を味わうために、ここ都幾川農産物直売所でご購入。
さつま芋・レーズンのうす焼き饅頭とノリ餅の2種類ね。
ほら、いかにもそれらしいでしょう。
このさつま芋のお饅頭、本当にさつま芋なんだよ(当たり前!)

それはそれは懐かしいお味。
ちょっと干し芋に似てるかも。
そしてこっちのノリ餅。

シンプルにちょっとの塩味と青のりの香りがとってもいい感じ。
うん、旨い~!
こうしたお昼ご飯もいいかもね。
むしろ、今の時代だったら普段あまり口にすることのない食材だもん、逆に贅沢だったりしてね。
う~ん、花袋先生の旅は実際のところどうだったんだろうか。
ちょっと気になるけど、、、わからん、、、無念じゃ。


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2015-05-23 Sat
花袋先生の旅 都幾川編花袋先生が旅に出たその当時が大正の初期。
当然、車もバスも電車も無い。
それじゃどうしたかっていうと乗合馬車だとか。
馬車、馬車ね~。
さぞお尻が痛かったことでしょう。
だって、今のような舗装道路じゃないだろうし、近代的なクッションのある馬車でもなかったでしょう。
飯能ー越生ー小川ー寄居ー長瀞の旅。
結構、距離、ありますぜ、ねえ、だんな。
そりゃ、馬車に揺られてるだけでも疲れますわな。
何度も何度も休まなきゃ馬だってやってられんわ。
きっとお馬さんもこのあたりで一服したでしょう、都幾川。
そうした記載があるかどうかは知るところじゃないけど、越生と小川のちょうど中間あたり。
都幾川とういう川がほんとに綺麗な場所でお馬さんにそのお水を飲ませてあげなさいよ。
ところで今じゃそんな都幾川町には農産物直売場がで~んと控えております。


旅の途中、車の運転にお疲れならどうぞお立ち寄りくださいませ。

しかもここには木工細工や陶器なんかも置いてあっていかにも山間の町って感じで里の道の駅とは全く違った雰囲気。


そう言えばこのあたりには材木屋さんも結構あったりして・・・・うん???・・・・材木屋さんねえ。
あの小川の女郎うなぎの福助さん。
若旦那が女郎さんんを身請けし、その福助さんに預けたってあったけど、もしかしたらこの辺の材木屋さんだったかもね。
まあ、そのくらい林業で生計を立てている人が多く、そのくらい山が多いという土地がらを表してるよね。
深谷や熊谷、ましてや花袋先生の故郷館林から見たらほんとに”山”だなと感じたに違いないよね。
きっと物珍しさいっぱいの旅になったに違いないよなぁ。


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2015-05-22 Fri
花袋先生の旅 小川町編(現代版その2)小川町には深谷市と同じ「仙元山」がある。
深谷市の仙元山の名の由来は浅間神社からだそうだけど、ここの仙元山はどうなんでしょうね。
すまん、わからん。
まっ、そんなことはどうでもいいわね。
だけど深谷の仙元山は標高100mを切る高さに比べ、小川町の子の山は優に200mを超えちゃうんだよね。
だから見晴らしもまったく違う。
しかも見晴らしの丘公園なんてものがあって、ご丁寧に見晴台まであるからそこから見える景色はそりゃもう・・・素晴らしい・・・はず。

ワタクシ、どうも、、高いところは、、、得意じゃありませぬ。

だけど、ここは勇気を振り絞って、、、、うぅぅ、、、、た、、、、か、、、、い、、、、~(涙)


おォォォ、さすが200m級、小川町すべてを見渡せるじゃん。

あれれれ、、、、あっちが北で、こっちが南で、、、、ええええっ、、、、完全な方向音痴じゃ、、、、180度狂ってる!(笑)
思わぬ弱点を露呈してしまった・・・・なぁ。

さて、花袋先生がこの山に登ったかどうかは別として、この町を評して、「好い町だね。こんなところにかうした町があらうとは思はなかった」というお言葉を残しているそうな。
比企の山々に隠された静かな人知れぬ名勝地とでも言いましょうか、今では”武蔵の小京都”と呼ばれているそうだけど、京都に似てるのは地形だけじゃん⁈ (ご無礼をば 笑)
花袋先生が旅をした時代には今のような大型マンションも大きな病院もでっかいスーパーもなく、もしかしたら本当に小京都みたいだったかもしれないよな。
盆地形状の町はそんな風情がどことなく漂ってくる。
この先もこの雰囲気を大切にして無駄なものは取り入れず、”レトロで名を馳せるような街”っていうのも凄くいいかもねぇ。


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