2015-04-14 Tue
戦争の歴史は今もこの地に。「東京第二陸軍造兵廠板橋製造所」は櫛挽工場の他に明戸工場と原郷工場があったそうな。
原郷工場は有名でしょう。
このあたりに住む人ならば誰でも知っている給水塔は今も有形文化財となって高さ18mのその姿を見せてくれてるよね。

明和30年から住宅として使われているので今は普通の民家ゆえ、近くに行って写真を撮ることは遠慮しておきましょう。
この他にもワタクシの記憶ではこの給水塔から少々離れた西側にもその名残の建設物があったように記憶していたんだけど今は解体されきちっとした畑となっておりますがな。

元々このあたりも松林だったと聞かされていたんだけど、今はその気配すらない。
そんな松林が戦争のために開墾され工場となり農地となり、そして現在の常磐町なったんだと思う。
その松の木は松根油として利用されたそうだが、今では笑っちゃうような話でもその当時は必死だったんだろうね。
そんな施設もこの給水塔にはあったそうだよ。
それとワタクシがまだお子ちゃまの頃ね、このあたりの土地を”ぞうへいしょう”って呼んでたんだ。
そのころは”ぞうへいしょう”っていう意味が分からなくって、そう言う土地の名前だと思ってた。
それが唯一のワタクシに残る造兵廠の記憶かな。
明戸工場は現在の市浄化センターとなっている敷地にあったんだって。

道を挟んで隣りに煉瓦工場。

実はこの煉瓦工場も併せて買収しようという計画もあったそうなんだけど、その時代には煉瓦も重要な物資。
そこで引込線は共用することとして煉瓦工場はそのままということになったそうな。
今で考えれば後世文化財となり得るだろう施設の破壊は自国の軍による中でさえもその危機にさらされていたんだね。
ふう~、危ない、危ない。
現在、その造兵廠の施設や痕跡はワタクシの見るところなにも残されていないようだけど、見るからに広大なその土地にどんな工場があったのちょっと知りたい気もする。
まったくその資料を手に入れることもできず想像すらできないような現在の状況ではその昔を知る生き証人のお話だけが頼りだよね。
もしそんなお話を聞ける機会があったとしたら是非聞きたいものだと思ったよ。
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