2015-04-20 Mon
”運命に従ふものを勇者といふ” その1改めて「田舎教師」巡礼の旅に行ってまいりました。
場所はもちろん羽生市。
しかし、知らない街っていうのはよく分かりませんね。
何処が繁華街なのか、何処が駅前なのか、さっぱりわからん。
でも、今日は二度目。
少しは・・・・。
でも、とりあえず馴染のある利根川土手沿いから。
清三さん(田舎教師)がトボトボと歩いて見た景色。

向こう岸へ渡った渡し船のあった場所。


歌碑がるとの標識を信じて歩いてみたけど何処にも見当たらず、もしかしたら堤防工事のせいで撤去された(?)、
おいおい、国土交通省、頼むよ~。


今は当時の面影もない風景かもしれないけど、確かに田舎だね~、この羽生(弥勒)ってところは。
こんな風景を見ていると確かに取り残された気分になるわ。
なるほど、なるほどね~。


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2015-04-19 Sun
活気のあることは良いことだ。昨日、そして今日と妻沼聖天様は春季大祭で賑わっております。
ワタクシ、聖天様には色々お世話になっていることもあり昨日、ご祈祷を受けに行ってまいりました。
が、、、、暫くぶりに行った聖天様のお祭りの様相がかなり変わってしまい面喰ってしまったよ。
な、なんと、御神輿!


えっ、、、神社の、、、お祭り、、、じゃ、、、ない、、、んだ、、、から、、、。
まっ、いっか、お祭りが盛り上がるならそれはそれでいいでしょう。
だけどこちらは今まで通りね。
明日(今日)、山伏さんがやる火渡りの修行。

これがすごい。
何がすごいって、生木の杉(?)の枝を燃やすもんだから煙が半端ない。
で、ほぼ燃えきったらその上をはだしで歩くんだ。
一般の方も歩けるよん。
ワタクシ、野暮用でいけないけど見たことのない人は一度はみてみてね。
こちらもこの光景はず~っと昔から変わらないよね。

それから農機具。
鎌や鍬やその他諸々。
職人さんが作ったものをいつもこの場所で売ってる。
それにしても見事な出来ですな~。

残念だったけど、この日もちょっと忙しかったのでざっと見てすぐ帰ったのだけど、秋季大祭の時はもっとじっくり見て歩きたいよな。
お祭りって、本当に良いですね~。


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2015-04-18 Sat
黄色の演出。春の色。別府沼公園の山吹が只今満開でございます。

”ななえ八重 花は咲けども山吹の みのひとつなきぞ悲しき”
そう、江戸城を作った太田道灌の山吹伝説ですね~。
また貧乏話になっちゃうけど、、、、。
山の中の一軒家に雨宿りを願い出た道灌さん。
そこに住む少女にみのを借りたいと申し出るのですが、少女は山から採ってきた山吹の花を無言で一輪差し出した。

(申し訳ございません 悲しいかな、みのひとつさえもない貧しい暮らしでございます)
訳も分からず気分を害した道灌さんだったけど、その後にその句を知りえらく感激したと。。。
そんな山吹伝説の場所が越生ににあるんだって。
行ってみてぇ~!
行ってみよう~!
だけど、そう、もうちょっと後にね。
今、ちょっと忙しいから・・・・・(雨のせいで予定がだいぶ狂っちまったよ 涙)

お~っと、雨が降ってきちゃったよ。
ワタクシも”みの”がないから、さっさと帰ろっと。


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2015-04-17 Fri
テレビや映画みたいな画で見るような世界が実在していた。
「田舎教師」の中で、お寺のご住職が言った言葉にこのようなものがあった。
「成功・不成功は人格の上になんの価値もない。人は多く、そうした標準で価値をつけるが、私はそういう標準よりも、理想や趣味の標準で価値をつけるのが本当だと思う」
出典:『田舎教師』
だけど、、、、。
あまりにも違う世界、これをもし田舎教師の清三さんが見たら・・・・。
あの「中島飛行機」(現在の富士重工)の創始者、中島知久平邸が太田市の文化財に指定され現在その一部が公開されている。
中島知久平。

(画像はお借りしました)
明治17年群馬県太田市に生まれ昭和24年までの65年間、輝かしい人生を送った人物。
ちょうど同じような時代を生きた田舎教師の林清三さんとを比較してしまうのはあまりにかわいそうだけど、日露戦争の勝利に喜びながらも若き一生を終えた清三さんのことがどうしても頭に浮かんでしまう。
そのころ尋常小学校を卒業し海軍機関学校を経て軍人へ、そして政治家・実業家へと順調に階段を駆けあがった知久平さん。
そして大正の時代を過ぎ昭和5年にはこの豪邸を”親のために”と、この太田市押切の地に建ている。


なんとその費用が100万円ナリ、とか。
同じ時期に大阪城の復興天守閣が47万円だったそうだから、このお屋敷がどれ程のものなのか想像するだけでもその凄まじさが分かると思う。


3000坪を超える敷地に贅を尽くしたお屋敷はまるで映画のセットのよう。
こんな世界が本当にあったんだと、感心するより何か空恐ろしさを感じてしまう。
庭の隅のベンチに腰掛けその邸宅を眺めていると”成功・不成功は人格の上に何の価値もない”っていうけど、人格まで変えてしまいそうなくらいの成功はもしかしたら、いや、絶対に存在してしまうのではないかと、不覚にもふと思ってしまった。


田舎教師の清三さんだって元々は熊谷の中学(現在の熊谷高校)を出て、そして代用教員とは言っても教師になった訳で、その時代の人としては決して恵まれていないとは言えないと思う。
むしろ知久平さん、元々は農家に家に生まれた方で、その当時裕福かどうだったかは知らないけどそんな境遇。
それが”成功”という結果がもたらしたこの生活の変貌ぶりはどうしたものか。
上を見たらきりがないし、下を見てもきりがない。
でも、この豪邸の上にいったいどれだけのものが存在するのか、、、、。

なんだか現実の世界と思想との矛盾とが頭の中を行き来し混乱してきちゃったよ。
そんな中島邸でござんした。


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2015-04-16 Thu
イメージが変われば見方も変わる。お恥ずかしながらやっと読み終わりました、田山花袋著「田舎教師」(どんだけ時間かかってんねん!)

では、この本をご存じない方のためにそのあらすじから。
(ちょっと長いから暇がある方だけお読みください)
田舎教師--田山花袋
日露戦争の戦況に一喜一憂している明治の中期、
中学を卒業した清三は、親友の父のはからいで、貧しい父母を養うために高等小学の教師となる。
師範学校に進もうとする友人たちの中で、
自分だけ田舎教師として人生を終えるのかと焦燥にかられる清三だが、
彼には、まだ、その境遇からいつかは抜け出ようとする意欲もあり、
清三は中学時代の仲間と同人誌「行田文学」を発刊。
しかし同人誌は4号で廃刊、仲間たちからは文学の情熱が失われ、芝居見物や女遊びに
はしゃぐようにになっていく姿を清三は寂しい気持ちで見つめる。
冬休み、実家に帰った時、親友の郁治を訪ねた。
ひそかに慕っていた美穂子と郁治が親しく文通している事を知り、
恋愛も学問も消極的になる自分を辛く感じるのであった。
しかし「自己を尽くし潔く運命に従おう」という心境になる。
それからの清三は、絵を描いたりオルガンを弾いている時間が多くなり、
行田の友人とも会う事も少なくなっていた。
教師になって3年目には、上野の音楽学校を受験したが失敗に終わった。
羽生に帰った清三は、虚しく寂しい生活から立ち直ろうとする。
過去を忘れ教え子たちを愛し、健康を取り戻し、野心を捨て両親の面倒を見、
昔の友達も復活させようとする。
しかし、清三は不治の病にとりつかれ、
次第に衰弱して寝たきりとなり、
この田舎も日露戦争の戦勝で湧きかえる中、
一人さみしくこの世を去って行くのだ。
( 知ってるようで意外と知らないあの名作 「一分でわかる!あらすじ図書館」)より
これを読むのもめんどくさい?
じゃあ、そんな方に搔い摘んで。。。
主人公林清三さんは貧乏な為、友人がみんな進学のために都会へ行っちゃう中、羽生市の弥勒小学校の代用教員として働くんだけど、やっぱりそんな自分がみじめになっちゃうんだよね。
しかも恋にやぶれ、志した文学も音楽も上手くいかず次第にやさぐれちゃう。で遊郭で遊んじゃっていっぱい借金まで作っちゃうんだけど、やっと立ち直って、さあ、これからっていう時に肺病(結核)にかかって死んじゃうってお話。
もう、どんだけ不幸なんだよ。
だけど、いかにもありがちなハッピーエンドの小説、、、そうじゃないところがグッとくる。
これって実話を元に花袋さんが小説にしたノンフィクション作品なのよね。
実はこの本をすべて読み終える前に舞台となっている羽生にある所縁の場所に行ってるのね。
ああ、ここね。

あった、あった、これか~。

なんてちょっとした”巡礼”気分。
だけど全て読み終えた今、もう一度その場所に行きたくなっちゃった。
たぶんまるっきり違った風景に見えると思う。
それだけこの小説についての思いが変わった、ってことかな。
だから以前に撮った核心の部分の写真は今回は無しね。

もちろん、田山花袋さんの見方も以前とはまるっきり違うよ。
記念館にもう一度行ったら前とは全然違う感動に包まれちゃうかも。
それにしても雨ばっかりのこの頃、本当に「晴耕雨読」とはよく言ったもんだ。


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2015-04-15 Wed
まっ、まさかこのワタクシが・・・。唯一、情報や資料がまったく見つからない「造兵廠明戸工場」
現地行けば何か・・・との期待を胸に、、、でも、何もなかった。
そんな浄化センター周辺をウロウロしていたら、お隣の煉瓦工場の煉瓦史料館(旧事務所)が一般公開されてた。


ああ、もしかしたらこの中に幾らかの資料や記録が残されているかも・・・・。
でも残念、造兵廠に関する記録はナッシング。
ただ、現在の浄化センター敷地となってる場所を用地買収されたとボランティアガイドをされているご年配の方が申しておりました。
ああ、ダメか、、、、と。
しかし、あろうことにそのガイドさんと話が弾んでしまい、あれやこれやの煉瓦工場思い出話しに花が咲く。
ガイドさん曰く、「そうした話を聞けることがこれからのガイドに役立つ」、とのこと。

ええ~!
と、言うことは、ワタクシ自身がまさかの”生き証人”となってしまったのか。
まさかの展開に少々ショックを受けてしまいましたがな。
”生き証人”とはワタクシなんかよりももっとず~っと長く、そして人生経験の豊富な諸先輩方を言うのかと思っていたら、ええ、ワタクシですか~(笑)
そりゃそうですね、もう半世紀を超える時を生きてきちゃってるんですから。
証人になっていてもおかしくないのか・・・(涙)

そんな訳でワタクシの知ってる限りの煉瓦工場回想録を熱弁してきちゃいましたよ(ぎゃは、恥ずかしい)
それにしても当時の風景を写した写真には感動したね。
長方形の形をした物体が乗る特徴的な工場の屋根。
何本もそびえたつ煙突。
独特の雰囲気は写真を通しても伝わってくるよ。
今はその面影の一端しかないけど、当時を生きてきた同世代の人間にとっては思いでの煉瓦工場。

その懐かしさと共にこの時代の流れに残されたこの旧事務所や変電所の建物がこれからも”動かぬ生き証人”として後世に語り継がれることを切に願うのでありやんした。
そうそう、史料館は毎週日曜日には一般公開しているそうだし、窯もゴールデンウイークには公開するらしいから当時を知る人がいたら行ってみてね。
ワタクシのくだらないおしゃべりだって列記とした証言となってお役立てできるんですよ~♪(ホントかよ!)


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2015-04-14 Tue
戦争の歴史は今もこの地に。「東京第二陸軍造兵廠板橋製造所」は櫛挽工場の他に明戸工場と原郷工場があったそうな。
原郷工場は有名でしょう。
このあたりに住む人ならば誰でも知っている給水塔は今も有形文化財となって高さ18mのその姿を見せてくれてるよね。

明和30年から住宅として使われているので今は普通の民家ゆえ、近くに行って写真を撮ることは遠慮しておきましょう。
この他にもワタクシの記憶ではこの給水塔から少々離れた西側にもその名残の建設物があったように記憶していたんだけど今は解体されきちっとした畑となっておりますがな。

元々このあたりも松林だったと聞かされていたんだけど、今はその気配すらない。
そんな松林が戦争のために開墾され工場となり農地となり、そして現在の常磐町なったんだと思う。
その松の木は松根油として利用されたそうだが、今では笑っちゃうような話でもその当時は必死だったんだろうね。
そんな施設もこの給水塔にはあったそうだよ。
それとワタクシがまだお子ちゃまの頃ね、このあたりの土地を”ぞうへいしょう”って呼んでたんだ。
そのころは”ぞうへいしょう”っていう意味が分からなくって、そう言う土地の名前だと思ってた。
それが唯一のワタクシに残る造兵廠の記憶かな。
明戸工場は現在の市浄化センターとなっている敷地にあったんだって。

道を挟んで隣りに煉瓦工場。

実はこの煉瓦工場も併せて買収しようという計画もあったそうなんだけど、その時代には煉瓦も重要な物資。
そこで引込線は共用することとして煉瓦工場はそのままということになったそうな。
今で考えれば後世文化財となり得るだろう施設の破壊は自国の軍による中でさえもその危機にさらされていたんだね。
ふう~、危ない、危ない。
現在、その造兵廠の施設や痕跡はワタクシの見るところなにも残されていないようだけど、見るからに広大なその土地にどんな工場があったのちょっと知りたい気もする。
まったくその資料を手に入れることもできず想像すらできないような現在の状況ではその昔を知る生き証人のお話だけが頼りだよね。
もしそんなお話を聞ける機会があったとしたら是非聞きたいものだと思ったよ。


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2015-04-13 Mon
歴史を語る不気味な風景。櫛挽を徘徊し小さな信号と出くわしたことはこの間の記事で書いたけど、もうひとつ変なものを目にしちゃったんだよね。
それがこれ。

近づいてみたら畑のど真ん中に古いコンクリートの建設物。

これ、どう見ても今は不要の長物とにしか見えないんだけど。

いったいこれ、何???
調べてみました。
これ、かなり有名な建造物だったみたい。
実は戦時中に立てられた弾薬の火薬工場ですって。
な、なんと物騒な。
正確にいえば「東京第二陸軍造兵廠板橋製造所 櫛挽工場」ってやたらと長い名前らしい。
要するに軍需工場ね。
昭和18年、戦局の悪化で本土空襲に備えこの深谷の地に工場を移転してきたって言うわけ。
元々この櫛挽は開墾せねばならないような鬱蒼とした森だったわけで、建造物が目立たぬことが第一条件だったこの地は軍の施設を建設するのにはちょうどよかったのかも。
しかも物資の輸送用に今の植木センターあたりから深谷駅までの間に引込線まで作っちゃったらしく、その途中に4つの駅まであったというから驚きだよね。
何処にその線路や駅があったのか今では分からないけど、その当時の軍のやることは本当にめちゃくちゃだったんだね。
もし、この工場のことがアメリカ軍に知れたり戦争がもう少し長引いていれば確実にこの深谷も熊谷同然の空襲にあって多数の犠牲や甚大な被害があってたかもしれない。
本当にギリギリの終戦だったわけだ。
いやぁ、まさかねぇ、この場所で戦争の傷跡を見ることになるとは思いもよらなかったよぅ。
でもまたひとつ、勉強になったよ。


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2015-04-12 Sun
初めての経験。とても一筋縄ではいかないな。
寒いです。
毎日寒くっておかしくなっちゃう。
寒いのが大っ嫌いなワタクシ。
やっと冬が過ぎやれやれと思っていた矢先の逆戻りで少々体調が落ちかけておりやんす。
そんな時に冷えたビールなんぞ飲んだ日には・・・・やばい。

とは言っても、燗酒やお湯割りの焼酎にはいきたくない、そんな雰囲気。
それと、只今ダイエット中につき日本酒からは少々遠ざかっておるんでございますよ。
本当は日本酒が大好きなのでございますが、奴は確実に我がお腹を巨大化させる。
うんじゃ、雰囲気だけでも、、、、ということでこんなものをお買い上げ。
あの銘酒「秩父錦」の蔵元さんが日本酒を蒸溜して作った米焼酎。

ワタクシ、麦や芋や穀物で作った焼酎はかなりいただいてきましたが、米の焼酎は初めて。
しかも日本酒から・・・・なんていう変り種はねえ。
いつかいただいたものもこれと同様に日本酒メーカーの焼酎で、コルク栓を抜けなくって非情にも断念した経緯があるだけにこいつには大きな期待を寄せちゃう。
で、やっぱりここはロックで。

あああ、そうなんだ、これが米、、、日本酒、、、、焼酎、、、、、複雑。
焼酎特有のツンっとした口当たりの後に日本酒の香り。
こっ、これは・・・・かなりの通好み・・・・だな。
ワタクシなど寄せ付けない、難しい味わい。
ううう、ちょっと寒くなってきたので今度はやっぱりお湯で割ってみた。

おお~、こちらのほうが全然飲みやすい!
日本酒にちょっと似た飲み口。
なるほどね~、飲み方次第なんだね。
またひとつ勉強になったよ。
ガッツ~ンっといきたいときはロックで。
ジワジワといきたいときはお湯割り・水割りで。
大変面白い米焼酎でございましたとさ。


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2015-04-11 Sat
それにはそれなりの理由がある。実は桜探索中の”櫛挽迷子事件”が相当気になり始め、その訳が知りたくて再びあの周辺を彷徨ってたんだ。
そう、チューリップのグリーンパーク(パティオ)までなら迷うことはないんだけどね。
だけど、この先(南・西)はどうもいかんですわ。
道に特徴がいんだよね。
何処に向かっても同じような景色で、同じような雰囲気で、同じような道なんだわ。
しかもみんなほぼ直線で左右の視界のどちらかが樹木で閉ざされた道路。
大きい地図・ルート検索 ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI )
地図を見ると良く分かるよね。
ビシッと区切られた長方形。
実はこの周辺は終戦の翌年の昭和21年から始められた開拓、開墾された土地なんだって。
だから元々は森?、林?、だった訳ね。
立ち木を伐採し、道路、用水・排水路を整備し、それはそれは大変な事業だったそうな。


開墾の始まった翌年の昭和22年にはカスリン台風、そして次の年のアイオーン台風でその度にそのほとんどの土地が水没してしまったそうで、諦め離農していった方もいらしたとか。
元々この周辺は水捌けが非常に悪く、しかも乾期になれば用水があるわけでもなく干ばつ被害にも。
総じて農業地としてはあまり向かない土地柄だったそうで、それをここまで重機のない時代に整備していったことはそりゃ並々ならぬご苦労があったことでしょうよ。
あの荻野吟子さんも旦那さんと一緒に蝦夷の地に夢を託し開墾という道を選択し、苦労の末旦那さんは病死してしまい、当の吟子さんも近代化医療の道から取り残され晩年はそれまでの輝かしい生活とはかけ離れたものとなってしまったらしい。
そう、人生をかけて行うものだったんですよ、開墾というものは。

そして、そうしたご苦労の上にワタクシ達の今ある生活が成り立っている訳で、感謝こそすれど”特徴がない”、”訳の分からん場所”、だなんんて口が裂けても言ってはいけない言葉かもしれない。
本当に人影を見ることも少なく寂しい農村地帯だけど、開墾の魂は二世三世の方々に脈々と受け継がれ、あの桜並木の桜とともにこの地域の歴史を築いてきたんだ。

こんな素晴らしい場所で迷子になんかなってる場合じゃないよね。
「深谷市の三偉人」なんて今、世界遺産関連で話題になってる御仁たちもいるけど、深谷市にはこうした方々だって存在したという事実をもっと広めたっていいと思う。
残念だけどワタクシを筆頭に開拓、開墾の歴史を知っている人ってきっと少ないと思うよ。
もしかしたらそんな事実を知らしめてくれるためにあの”櫛挽迷子事件”が勃発したのかも知れんね。


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