2015-01-19 Mon
その昔からあった野鳥保護。が、その裏側には人間のエゴが見え隠れする。
ところで、田所町の呑龍院。
おそらく深谷、熊谷圏内に住む人ならば”呑龍”と聞けば太田市の「大光院」(呑龍様)を思い浮かべると思う。

呑龍上人 (画像はお借りしました)

太田大光院
実はその呑龍様がこの深谷に出張して建立したお寺が田所町の呑龍院なんだね。

深谷呑龍院
群馬の太田を本店とすると、こうした支店があちこちにあるらしい。
それだけ呑龍様は人々に愛されてた。
と、言うのもこの時代、”間引き”され殺されてしまう子供たちが多くいて、それを不憫に思いひきとり、そして弟子とした呑龍さんは今でいえば保育園の園長さんか施設の先生。
そりゃ多くの人に尊敬されるわな。
だけどそんな呑龍様にもピンチの時があったんだよね。
母親の病気を治そうと鶴を殺しちゃった少年(源次兵衛)を匿って逮捕されそうになり、こりゃまずいと小諸まで逃げちゃった。
その時代、鶴を殺しちゃうのは大罪だったんだって(今も同じ)
だもの御上から相当怒られちゃってたらしいよ、呑龍様。
かなり無茶苦茶な行動だったみたいだね。
その後、日本最高のお坊さんに遺言によって赦免となって再び太田に戻れたけど、紙一重の逃避行だったみたい。
さあ、そこで疑問なのが「鶴ってこの辺にいたのかよ」、っていう話。
今じゃ考えられないよね。
ところが江戸の時代にはこの関東一帯に鶴(タンチョウ)はいたらしいんだよ。

(画像はお借りしました)
「鶴ヶ島市」の名前の由来は松の木に鶴が巣を作った、なんていうものがあるくらいだからいたんだねえ。
その鶴のお肉はかなりの高級食材で、位の高い武士や外国(韓国など)のお客様の接待ぐらいにしか使われず、お国から獲っちゃダメというお達しが出てたらしい。
つまり天然記念物、保護鳥だったわけだ。
でも、お偉いさんは食べてたわけだから、そりゃ知識の無い庶民からしたら相当な効力のある薬効食材と考えてもおかしくはないわな。
だから法を犯し自分の身に危険が及んでもおっかさんの命のためなら決死の覚悟で殺っちゃたんだよ。
その少年を匿って、、、、美談だね、呑龍様。

だけど、今の時代に置き換えて考えてみよう。
もし佐渡島のトキを食べちゃったら法の下で仮に無罪となったとしても世論が許さんだろうよ(比較対象がおかしいだろう!)
その後の呑龍様の評判がその行動によってどうなったかは知る由もないんだけどね。
何はともあれ、鶴を高級食材とすること自体おかしい。
保護の名において、自分たちの利益のためだけに捕獲が許される、それを保護というのかよ。
世間ではそう言うのを”独り占め”っていうんだね。
それを法律にしちゃうってところがいかにも江戸の時代らしい。
だけど現実的にはその法の効力のなかった蝦夷(北海道)では乱獲され数が激減、タンチョウの生息自体に赤信号が点灯したことを考えればその法もあながち間違いではなかったとも言えないことはないけどね。
さて、この呑龍様、この時代では長生きだった68歳の天寿を全うして亡くなったんだけど、その亡くなり方もドラマチック。
「雷が鳴ったらそれは命の終わる知らせ」、そんな予言をしながら亡くなったらしい。
雷の多いこの地方らしい亡くなり方だし、それもかっこいいよね、呑龍様。
そんな呑龍様の遺志を継いだ「子育て呑龍」には今日も子供の成長を願う人で賑わっておりましたとさ。
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